障害を諦めることはしなかった 節子さんのことを
スポーツクラブのプールといえば
どこもガラス張りのところが多く
アクアビクスレッスンをしていた頃
私の背中は 一年を通して 水着の日焼けあとがついていた
ある日レッスンを終えて
メンバーさんたちとくつろぐジャグジーの中で
私はいきなり背中を撫でまわされた
「いいねえ先生のからだ 健康っていいねえ」
それが節子さんとの出会いだった
彼女はその1ヵ月ほど前から
毎週 私のレッスンが始まるころに
松葉杖でプールサイドを横切り
ジャグジーにつかりながら
レッスンを見つめるだけの人だった
脳腫瘍の手術のあと左下半身が不自由になり
水中歩行がリハビリに良いと聞いて
スポーツクラブに入会したものの
胸まで深さのあるプールには
不自由な体では入ることができず
ジャグジーだけが彼女の施設利用だった
「いいのよ楽しいのよ
先生を見ているだけで なんだか元気になれるような」
「そんなこと言わないで
一緒にアクアやりましょうよ」
と言うものの・・・
松葉杖と並べて置かれた下肢補助カバーが 痛々しかった
聞かされる脳手術の経緯は 壮絶なものだった
長期にわたり いったん開いた頭蓋骨を
保存のため自分のお腹の脂肪の中に入れて
その間 頭は一部分頭蓋骨なしのプヨプヨ状態だったという
そんな大手術を乗り越えて 半身不随になりながらも
スポーツクラブに入会した節子さん
水着に着替えるだけでも
人の何倍も 時間と労力を要していることだろう
彼女の気丈さに敬服した
「私が横につきますから プール 入ってみましょうよ」
私自身 恐る恐るの体験だった
彼女の左足は感覚が全く無いため
水中では足裏をつけることさえ出来ず
足首から先は 予想外の動きをみせて
着地は足の内側だったり 外側だったり
ぐにゃりと甲でついてしまったり。。。
けれどその痛みさえ 彼女には全く伝わらないのが
悲しかった
プールサイドから放す事の出来ない両手の指は
力が入りすぎて こわばっていた
・・・きっと歩けるようになる!きっと!
それから毎週2~3回 レッスンを終えてから
彼女と私の 水中歩行の挑戦が続いた
意識を集中させて 足を持ち上げたり回したり
自分の体がじれったいと嘆きながらも
彼女は根気よく 頑張った
足を滑らせてプールサイドにぶつけてしまい
剥がれた爪から出血した時も
「左足感覚無いから 大丈夫 ぜ~んぜん 痛くない」
と あっけらかんと笑ってみせた
いつも明るくて 前向きな努力家の彼女だからこそ
プールサイドから手を放して歩けるようになるまで
それほど日数はかからなかった
彼女の努力は 目に見えて回復へと繋がり
3ヶ月ほどしたある日
ちょっとした事件がおきた
プールサイドに忘れ物があった
いつもプールから上がると
彼女が装着する 下肢補助カバー
彼女は 補助カバー無しで
松葉杖だけで 帰ってしまったのだった
水中歩行に挑戦し始めてから 半年過ぎたころには
彼女は
私のアクアビクスレッスンの 熱心なメンバーになっていた
松葉杖の必要もなくなり
奇跡のような回復で
病院の医師たちを驚かせた
ボランティアに出掛けたり
大好きなガーデニングしたり
彼女の家の中と庭先は
いつも花でいっぱいだった
そしてスポーツクラブ通いは日課となり
クロールの水泳距離は日々伸びて
1Km は軽く泳ぐほどになっていた
知り合って一年が過ぎて
肺への癌転移が見つかった時も
「手術入院のあいだ
しばらくプールに来れないのが残念やけど
また絶対すぐに来るから」
と 気丈に病魔と闘った
お見舞いに行くといつも病室にいなくて
体力維持の為にと
何度も階段を上り下りする節子さんの姿があった
言葉通り
退院するとすぐにプールへ復帰した彼女は
会うたびに私に言うのだった
「先生 見て!泳ぐから見ていて!」
胸の手術跡は痛々しく
上がりにくくなってしまった腕を
懸命に回す彼女のストロークは
事情を知らない人の目には
きっと奇妙に映るだろう
「かっこいいよ!」
私は心からそう思った
「でしょ♪」
いたずらっぽく笑いながら
「でも思うように前には進まなくて」
と何度も練習するのだった
半年が過ぎて
レッスンを終えた私を
プールの外で節子さんが待っていた
「きょうはどうしたの? 皆勤のレッスンお休みしちゃって」
「先生・・・ また癌が見つかった・・・」
そう言うと 節子さんの顔は涙でくずれた
私は 言葉が出なかった。 というより
一緒に泣き出してしまって 喋ることができなくなった
クラブの薄暗い階段下で ふたり泣きながら
ただ悔しかった
私には何もしてあげられない
どうしようもない
数日後 節子さんは
毎日のように通ったクラブに
退会届を提出した
入院前に会っておきたいからと
節子さんからお茶の誘いがあって
彼女の家を訪ねた
「先生 もう見舞いに来なくていいからね」
「えっ あの駅前の病院でしょ 通り道なんだし 寄らせてよ」
「だめ! 先生はいつも楽しい気分で
みんなを幸せな気持ちにさせなきゃいけないんだから
病人みてたら仕事にさしつかえる
私は大丈夫
主人も娘もいるし 先生は来なくていい 来んといて!」
節子さんは ハッキリとものを言う人で
それが彼女の 優しさでもあった
「こっちから電話するから 絶対また元気になって
その時に 会いに来てって 電話するから」
最後の電話は いつだっただろう
彼女を忘れたわけでは 決してない
ただ 毎日仕事に追われて
あっという間に月日が過ぎてしまった感じ
他で新しい仕事が入ったことなど
そこを辞めた理由は他にもいろいろとあったのだけど
私自身 節子さんと出会ったクラブを
彼女の退会のあと 数ヶ月で辞めていた
結果として
彼女の死を知ることなく
一年の月日が経ってしまっていた
偶然に街で会った彼女の知人から
死を知らされて 戸惑った
「また元気になって その時に電話するから」
約束した彼女の言葉を
ずっと信じていたかったのだ
もちろん誰でもいつかは死ぬし
尊厳死さえ肯定する
けれども節子さんは
生きたい!と願っていた
不自由な体になっても負けることなく
人生を楽しもうと 懸命に努力していた
いつか彼女が言っていた
「私が生きていたことを
多くの人に知ってもらいたい
覚えていてもらいたい」と
物事に対して
仕方がないから諦めるという
判断基準は 人それぞれに違うだろう けど
私の心の中には 節子さんが生きている
彼女の存在が
諦めないという判断基準を
高いところに 押し上げてくれている
どうしても どうしようもないことは
仕方がないのだけれど
前向きに 懸命に生きた日々
諦めないことが救いになる時もある と
節子さんは 教えてくれた
節子さんからいただいたアロエ
どんどん大きく育って
いまも 元気です
ご訪問ありがとうございました
感謝☆